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母親がわりだったばーさんが死んだハナシと2本のバラとワタシ

by 穴田 弘司(デザイナー)

ワタシのブログやSNS上でしばしば登場する革ジャンにグラサンが礼装の愛すべき祖母、

つまりワタシのばーさんが、つい先日、この世を去った。

そして黄泉平坂49(よもつひらさかフォーティーナイン)の一員となって、おそらくは7回目の審判を終えて極楽か地獄か、またはもっと別のどこかなのかは知らんが、ともかく日本の風習でいうところの49日が今日らしいので、追悼の意味を少しだけ込めてちょっとだけ書こうと思う。

ワタシは宗教的な考えをほぼ持っていないから、残されたものの信心を試すかのような祈る、拝む、縋る、といったことはやらない。毎日米を炊いて供えるようなこともしていない。

初七日法要ももちろんやってない。

けれど愛すべき人であったばーさんがいた事、ワタシという人間の多くを作ってくれた人がいたことをインターネッツの海に流せば、ワタシのつたない、更新頻度の低いブログであるこのタワシブログを読んでくださるほんの一握りの人にだけでも知ってもらったら、それは彼女の生きたアカシになるのではないか、と思ったので書こうと思う。

タワシブログはワタシの身の上話や自分語りが多いが、今日もそれらが多いことを先にお伝えしておこう。

母だったばーさん

ワタシは生みの母はあくまで「生みの母」として認識している。

生みの母としては感謝しているが、誇張でもなんでもなく育ててもらった覚えはない。

すでに縁も絶っているため、生死すら不明だ。

そんなワタシだから、幼い頃からの相談ごとはすべてばーさん。ご飯も基本的にすべてばーさん。だから、ばーさんこそがワタシの母だった。

相談なんて最後にしたのはおそらく15歳ぐらいだが笑

ばーさんはワタシが小さい頃からのハナシをたくさんしてくれた。

昔のことをあまり覚えていないワタシは彼女が教えてくれたことでなんとか幼い頃の記憶を保っている。

例えば、

『もともとぎっちょ(左利き)だったけどあたしが矯正したんよ。感謝せられぇよ。』だとか

『あたしが絵本を読んでたら「ばーちゃん、違うよ」ってよく言うてくる子だったから面倒だったんよ。

普通の親はあんなに読まんよ。』だとか。

(※アレ?なんかすげー嫌な人だな笑 いやいや、そんなことはないはずだ。)

例えば、10ヶ月ぐらいで歩いてたんよ〜とか、

2歳ぐらいのときには手押し車引いて3キロぐらい離れたばーさんの家にひとりで歩いて来たんよ〜とか。

そんな眉唾ものの親バカを嬉しそうに孫であり、その当人であるワタシにしてくれた。

日本料理が得意で、洋食が苦手。

普通のご飯はすべてばーさんが作ってくれていたから、ワタシの身体はばーさんの味付けでできていた。

今のワタシがちゃんとした味覚を持っているのはばーさんのおかげと言っても言い過ぎではない。

前に他の記事で書いたが、

金髪にしようが、ピアスをあけようが、何も言わないどころかすべてを肯定してくれた。

唯一入れ墨だけは入れようとしたら否定された。

仕事を探しているときに金のいい仕事は無いかな〜って言ったらホストを勧められた。

(※ろくな人間じゃないな全く 笑)

→他で書いたピアスのお話はこちら

ばーさんにまつわるハナシは思い出せばいくらでもある。

サプライズ大作戦

19の頃、バイトをしながら家に内緒でバイクの免許を取りに行き、

免許が取れた日にバイクに乗って帰った。

大きい音がしたけど、なんでぇ?

バイク買うたから乗って帰ってきた

はぁ?免許はぁ??

免許は?いうて取ったよ。そりゃ。

今日取って今日バイク買うて帰ってきた。

「なんで何も言わずに勝手なことするの!」

なんて言うような人ではなかった。

「はー、あんたすげぇことするなぁ。どんなん買ったんでぇ。見せて。」

といって、一緒になってワタシの買ったヨンヒャクの黒いネイキッド(ZRX)を見て

「カッコエェなぁ、あたし好きじゃわ〜こういうの」と目をキラキラさせながら言っていた。

マフラーを変えていい音がしてたときもノリノリで音を聞いて「えぇ音じゃなあ」と言った。

22歳になって今度は車の免許を取るのだが、そのときも同じように何もいわず免許を取り、同じように取得日に車に乗って帰った。

しかしさすがに2回めは勘付いていたらしく「そうじゃと思ったわ」と言われたが、前回同様にわざわざ外に出て、背の低い黒いセダンを見て同じように褒めてくれた。

一方で、否定はされないが叱られはした。

「宿題せられぇ!」とか「好き嫌いするな!」とか、当たり前のことでは怒られた。

すべてしつけのためのもので、いわゆる本当の怒りの類ではないと思う。

ただ一つだけ。ばーさんが真剣に怒ったことを覚えている。

ばーさんの友人が家に来ていた時、

ワタシが「孫です。ほーとーむすこですー」と茶化すように自己紹介した時、

ばーさんがキッとこちらを睨みつけ

「放蕩息子なんかじゃねぇわ、そんなことを二度と言うな!」と割とがっちり怒られた。

20歳は超えていたと思うが、多分一番強く怒られた。

氣の入っていない軽口に対してかなりの熱量で怒られたワタシは、正直なところ「なんでそんなに怒るんだろう」と思ったが、実際のところ少しだけ嬉しかった。

この人はワタシのことを本当に大切に思ってくれているんだなと思った。

この人は戸籍上の母親ではないけど、ワタシの母親なんだ、と強く思った。

ワタシのこの性格は、じーさんとばーさんが作ってくれたもの。

特にばーさんが作ってくれたものだと思っている。

ワタシは40年前の2月24日に生命として生まれたが、

ワタシのこの人格は、ばーさんが生んでくれた。

ワタシは自分のことを好きだけれど、自分を好きだと思える感情をくれたのは紛れもなくばーさんだ。

ばーさんはまぎれもなくワタシの母だった。

少しずつ、すこしずつ

5〜6年前、ばーさんに大きな動脈瘤が2つできた。

動脈瘤というのは若い頃にできていれば手術などをして改善させることもできたりするらしい。

しかし、当時80歳を超えていた彼女の身体は手術に耐えられないだろうということになり、手術せずなりゆきで過ごすという選択肢を取った。

彼女はワタシが大人になるころまで1日一箱マイルドセブンを吸っていた。

20歳から60歳ごろまで、タバコを吸っていたのだから身体、とりわけ肺へのダメージが大きかったようで、手術をできないのは肺が悪いからというのもあったらしかった。

(※だから、タバコはなるべくみんな吸わないようにしましょう)

動脈瘤と付き合うということは血圧を上げないように気をつけることを意味する。

塩辛い味が好きな彼女にそれを強いるようなことをすることは無意味だと思ったワタシは

「好きなように生きて、ある日きたその時を寿命だと思おうぜ。」とワタシは言った。

あと、「死んだ後のことは心配するな」とも。

もちろん多少は塩分を減らしてはいたが、それでもなるべく好きなものを食べ、好きな韓国ドラマを見ながら、彼女は日々を過ごしていた。

もともと料理も洗濯も掃除も全て自分でやっていたばーさんも徐々に歳を重ね、次第に少しずつそれらのことをするのが難しくなり、介護ヘルパーさんに来てもらうようになった。

それでも週2回だったか、そのくらいの頻度で、それ以外はまだまだ自分でやっていた。元気だなばーさん。(当時85歳くらい)

子供が小学生になるちょっと前、ばーさんが家で転倒して腰の骨を折って入院した。

半年ほどして退院はしたが、もはやほとんど家事はできないため週6でヘルパーさんが入った。

ワタシも前までよりたくさんばーさんの家に行くようになった。

だんだん気も弱っていってるのが目に見えた。

パパがそろそろ来いって呼びよるんかな

などとのたまうばーさんに、

何ちばけたこと言いよんなら。○○(うちの子)が小学校になってランドセル背負うの見るんじゃろうが。気弱なこと言う暇があったらもうちょっと長生きしようと思われぇ。

とハッパをかけつつも、明らかに弱りつつあるばーさんを見るのも辛かった。

その退院から数ヶ月、家で意識を失って倒れているのをヘルパーさんが見つけてくれ、再入院。

そうか、とワタシは腹をくくったが、まだまだ元気は保って生きていてくれた。

再入院からほどなくして、ばーさんはご飯が食べられなくなっていった。

飲み込む力が徐々に弱くなっていってたようで、大好きだった近所のパン屋のバターフレーキパンを差し入れたときに、固形物は駄目だと看護師さんに言われて寂しそうにしたばーさんを見て切なくなった。

だから桃の瓶詰めや果物ジャムなど、流動物を差し入れた。

ちょうど離婚もしたころだったが、びっくりして動脈瘤が破裂してはいけないという思いと、もう死が間近にある人間にそんなこと伝える必要はないなと思って、結局最後の最後まで言わなかった。

うちに子供が泊まりに来る日、たまに面会に連れて行ったりしながら、当たり前のように今まで通りを装った。

ピアスや指輪などワタシの小物にあんなに興味を示していた彼女がワタシの左手に指輪がないことを悟っていなかったかどうかは疑問が残るところだが。

車の免許のときのように、実はバレていたのかもしれない。

そんなこんなで入院こそしたものの、ワタシはむしろ安心していた。

日に1〜2時間だけヘルパーさんが来たとて、いない時間のほうが長い。

それならいっそのこと病院のほうが24時間誰かいる、という思いがあった。

その後、コロナウィルスが蔓延し始めた頃、面会がぐっと制限された。

月に1度、平日の決まった時間で、となった。

ますます会うのが難しくなったが、自営業者の強みで時間を調整して行っていた。

小学生以下の子供は一切面会制限となったから、子供の写真をたくさん見せた。小学校に上がった時、病院に頼んで一度だけ子供も面会させてもらった。

ちょうどその頃には、ばーさんは正しい発音で声が出せなくなっていた。

何を言っているのか分かりづらい音声で、それでもこちらに何かを伝えようとする。それを聞き取ってあげられないことは悔しかった。

写真という形ではあったものの、念願だったひ孫のランドセル姿を見た彼女はそれからも弱る一方で、とうとうベッドから全く起きられなくなっていった。

そのころは月1回、5分の面会制限で、行ってもすぐ帰らなければならない世界の状況を少しだけ、ほんの少しだけ呪いもしたが、それでも会わせてくれるだけありがたいと思っていた。

日々少しずつ、少しずつ弱っていくばーさんは、いったいいつまで生きていてくれるのだろうか、と肚をくくってワタシは毎日を過ごしていた。

三度めの正直

ハナシは少し遡る。

ばーさんはワタシの仕事のことを常に案じていた。同時にお金の心配をずっとしていた。

これも前に書いたかもしれないが、ワタシは15で高校をやめている。

18歳になるまでは、高校在学中から続けていたトラックの荷降ろしなどのバイトをしていた。

18歳になってまわりが高校を卒業する頃、パソコンが得意だったからそれを使った仕事をしたいと思い、当時まだその仕組みが世に出はじめた頃の派遣会社で、派遣社員という形でとにかくパソコンに関連した仕事をさせてもらった。

なるべく色々なことを経験したかったので、そんなに長期にならないように仕事をさせてもらった。

22歳

まわりが大学を卒業し就職する頃、ワタシも就職しようととある会社に正社員で入った。

そこが超絶どブラック会社でワンマン社長のスーパーパワハラに辟易し、そこから独立を決意してそれ以降独立のためになる仕事を見定めて、期間を決めて色んな仕事をできる限りこなしてきた。

そんな思いをもって勤めていたのだが、その思いを一切話すことはなかったから、ばーさんから見たらどこかに入っては半年〜1年くらいでやめるを繰り替えす綱渡りをしているように見えたのだろう。

いや、まぁ実際綱渡りのような生活はしていたのだが笑

だから彼女はワタシの仕事のことを常に心配していた。

心配させてはいけないな、とずっと思っていた。

いろいろあって2008年7月、ワタシはStyle A+をおこした。

個人事業で仕事を初めた、なんて、心配性のばーさんには言えなかった。

バイクの免許の時、車の免許の時、同様に

隠したままで、達成した時言えばいいや、と思った。

今言えば心配するから、もう少し売上が上がったら言おう。

ずっとそう思っていた。

おかげさまで13年間一度も下がることなく微増ながら、毎年ずっと売上は上がった。

4年目くらいからはおそらく一般的な生活できていたし、いつ言っても良かったはず。

しかし言うタイミングを見失っていた。

2021年8月。ワタシの会社は法人化した。

言うのはこのタイミングだな、と思っていた。

けれど、結局言うことができなかった。

法人化してから一度も会うことがなかった。

バイクのときはできたのに、車のときはできたのに。

仕事のことだけはサプライズ大作戦できなかった。

3度めの正直は、正直になれないままで終わることなくそこにとどまり続けることとなった。

法人化するずっと前のことだがワタシの講習のチラシを見つけた介護の方が、ばーさんにそれを渡していた。

ばーさんから「あんた先生したりするんじゃろ?」と聞いてきた時ワタシはすごく嫌だった。

自分の言葉で伝えていないのに、なぜお前が言った、と介護の方に八つ当たりの感情をいだきつつ

「あぁ、それな、たまたまなんかそんなんするだけよ」

みたいな感じで濁した。

けれど、ばーさんはそのチラシをなんとも大切そうに持っていた。

孫の仕事の姿が少しだけ見えて嬉しかったのかもしれない。

チラシの件もあるし、結婚式で友人がスピーチをしてくれたときも聞いているからばーさんはワタシが自営業していたのは知っていたのだと思う。

いつのころから、仕事のことを心配する発言をしなくなっていたから、気づいていたんだろう。

けれど、やっぱり、

できることなら自分の口で言いたかった。

病院

朝6時過ぎに電話がなった。発信者は病院。

3時過ぎに寝たワタシだったが、一発で目が冷めた。

時間が時間で、発信元もそれだから、電話に出る前に悟った。

一息ついて、落ち着いて電話に出た。

焦ったような電話口の看護師さんに落ち着いて対応し、病院に車を走らせた。

・・・

病室につきばーさんの近くに行くと存外にやすらかな顔をしていた。

安心した。死者を前に安心というのも変なんだろうが、安心したのだ。

動脈瘤の破裂はすさまじい痛みが一瞬来てそれから絶命するだろう、なんて聞いていたから、やすらかな顔はそれではなかったことを表していた。

穏やかに寝ているうちに逝ったのだろうと思えた。

今際の際まで苦しまなくて、本当によかった。

家族が死ぬのは2回め。

じーさんのときは、自分が泣いてはいけないと思ったからか泣かなかった。

けれど今回は泣いた。人がいてもかまわず泣いた。

声はあげないように配慮はするが、声をかみころして、心を隠すこと無く泣いた。

同じような病室。同じような死に顔。

父みたいな人と母みたいな人。

似たようなもの。

だったはずなのに、やっぱり違った。

優劣をつけるつもりはないが、それだけワタシはばーさんのことが自分は好きだったんだろうなと思った。

自分は案外マザコンだったんだろうな、この時そう思った。

怪我や病気でいつも入院していた病院だったから、他の階にいる別部署の看護師さんなんかもたくさん看取りに来てくれた。都度都度、立ち上がってはこらえることのできない涙の粒を拭いながら挨拶した。

ちゃんと挨拶をしようとするけれど、できない自分が歯がゆかった。

最初に書き記したように日本の古い因習クソくらえなワタシは、通夜も葬式もしないと決めていた。

幸いなことに親戚もいないからそれをとがめられたりそれが原因で誰か何か嫌な思いをすることもない。

もっとも、とがめられようがそんなことをするような素直なワタシではないけれど。

入院中も入院費やいろいろなお金のことをずっと気にしていた彼女は、葬式で大銭を使うことを喜ばないと知っていたから、病院から直葬するよう手配した。

11時半には葬儀屋が来るということだったので、一度家までパソコンを取りに帰り、葬儀屋が来るまでの間、傍らで仕事をしていた。気を紛らわすためにしていたのかもしれない。

死人の横でパソコンを叩く姿は異様かもしれない。

けれど、ずっとそばにいて泣き続けていてもそれを喜ぶような人じゃないから、それなら最後に仕事する姿を見せておこうと思ったのもある。

見ることのできない人に「見せる」という表現もおかしいもんだが、やはりそういう気持ちになるものだ。

やがて葬儀屋が来て、40人くらいのたくさんの病院の方に見送らればーさんは病院から出た。

葬儀屋と翌日の祭儀のハナシを詰め、ばーさんと離れた。

直葬だと次の日、斎場で火葬する際が最後の別れということだったので、不意にすっ、とぽっかりと一人ぽっちになった気がした。

少しさみしくて、友人につきあってもらって飯食ったり色々巡ったりした。

バラを2本

翌日は日曜日。本日はお日柄もよく〜なんて言葉をいいたくなる晴天だった。

洗濯物も干して、いつもどおり。いつもどおりの朝を過ごした後、斎場に向かった。

花なども全て無い直葬プラン。ふと思い立って花を持っていこうと思った。

通り道にある小さな花屋さんに飛び込み、こうオーダーした。

「葬送花にしたいので、2本ほどバラをもらえませんか?」

花屋さんはキョトンとしていたが、たった2本のオーダーを快くうけてくれた。

ばーさんは菊やユリの嫌いな人で、その反面、自分でも育てるくらいバラが好きだった。

かなり昔に、バラのプリザーブドフラワーを上げた時、崩れるまでずっと大事に持っていたのを覚えていたから、棺桶に入れるならバラだろうと思った。

本当は黒と白がよかったけれど、やっぱりそれはなくて。

だからばーさんが好きだった赤いバラをもらった。

花束にしようと思ったけど「えぇわ、ふうがわりぃ(岡山弁。格好悪いなどの意味)」と言いそうだったので、じーさんのと1本ずつという意味で2本。じーさんはバラは好きじゃないだろうけど、ばーさんが好きなものならそれでいいというタイプの人だったからきっとそれでいい。

斎場で棺に入ったばーさんと再対面した。

棺桶には後生大事に使ってたメガネや財布も入れた。

お気に入りの革ジャンも入れたからきっと寒くはない。

コーヒーが好きな人だったからちゃんとした豆のドリップバックをいくつか入れて、大好きだったお菓子も少し入れておいた。

使ってたガラケーも入れてあげたかったけれど、駄目だと言われて諦めた。

ばーさんが退院できないことが定かになってから実家を整理したとき、じーさんとの旅行の思い出の写真を取っておいたから、それらを片っ端から1枚残らず全部入れた。

そしてほんの数枚だけ、ワタシの写真と子供の写真も入れといた。

伝えられなかった仕事のことも、Style A+時代の古い名刺と、株式会社スタイルエープラスの名刺も一枚ずつ入れといた。どちらに遊びにきてもいいように。

そして最後に。

バラを2本、ちょこんと乗っけた。

ワタシは死後の世界を心から信じているわけじゃない。

死ねばタンパク質の塊。死後は意識はどうなるのかは知らない。

見たこと無いからわからない。幽霊的なものになるのかならないのかもわからない。

それでもいわゆる「あの世」みたいなものがあったらいいな、と今は思う。

ばーさんは、じーさんのいるところ目指して行くはずだ。

か細い手足でがんばってじーさんをめざして、お菓子をお茶うけにコーヒーを飲みながら、闊歩するだろう。

イケメンが大好きな人だったから、他のイケメン死者に「あんたかっこえぇな〜ええ顔しとるわ」とか言いながら、それでもやっぱり一番好きなあの人のところへ向かうだろう。

なんやかんやあって無事出会ったら2本のうちの1本を彼に渡して、

出会ったころのように社交ダンスを踊りながら、愛を語らい合うんだろう。

じーさんは若い頃社交ダンスの先生をしていてかっこよかったそうだ。

血がつながってないせいか、ワタシにダンスの才能が届いてないのが悔やまれる。

バラの葬花も法要を行わないことも、信心深い人からすればありえないことなんだろう。

でもそれでいい。ワタシの好きなようにすることを望む人。誰よりもワタシがよく知っている。

誰よりも自分のことが好きで、注目を集めるのが好きな人だった。

誰よりもじーさんのことが好きで、じーさん死んでからずっと月命日をやり続けたような人だった。

誰よりもワタシのことが好きで、ワタシのすべてを肯定してくれて、今のワタシを作ってくれた人だった。

結局、最後の最後まで母さんと呼ぶことはなかったけれど、それでもただひとり唯一ワタシの母。

人は死ぬ。生まれた瞬間から決まっている、人生の最後に来る絶対不可避のライフイベント。

ならばその最後に苦しみはしただろうけど、裂かれるような痛みを感じなくてよかった。

そのライフイベントの締めをするのがワタシでよかった。

未だにばーさんを思えば涙は出てくるし、こんなふうに文章を書いてる間もやっぱり涙は止まらない。

愛すべきばーさんは40年間のワタシの人生にこの上なく深々と残っているから写真はすべて棺に入れた。

写真は一切見なくていい。顔だって少しずつ忘れていっている。

ときどき思い出す。

それくらいでいいんだろうと思う。

手紙

ばーさんが死んだ日、土曜日だから子供に最後を看取らせるか悩んだ。

けれどまだ小1の彼女に「もう話すことのできないばーちゃん」と会わせるのは少し酷だと感じたし、そのあとワタシが一緒にいてあげることができないことあって、後日伝えるという選択肢を取った。

死んで1週間経った後、娘が泊まりに来た。

いつもどおり無邪気に心からの笑顔を見せる彼女としっかり遊び、家に帰ってご飯を作るときに伝えることを決意した。

ふいに「ひいばーちゃんおったじゃろ?」と話しかけたらすぐに察したようで、顔をキュッとしかめた。

伝える時、さすがに娘の前で泣きながら伝えたくないと思って頑張って(というのもおかしいが)、

「ひいばーちゃん調子悪くなってな、なくなってしまったんよ。死んでしまったんじゃ。」

と伝えた。そして骨壺の方を指して

「そこにひいばーちゃんおるから、今までありがとうって言っとき」そう伝えた。

うちの子はとても聡明で優しい子だ。

ふざけることも多々あるけれど、父が真面目に話しているというときは真面目に聞くからちゃんと手を合わせて「いままでありがとう」って言っていた。

その姿を見て、胸がぎゅっと締め付けられたが、頭をゴシゴシしながら

「ばーちゃんは君のこと大好きだったぞ」と伝えた。

その後子供は元いた部屋に戻り、ワタシも再び調理をはじめた。

料理もほぼできあがった時、ふっと骨壷を見ると小さな紙切れが置いてあった。

ひいばあちゃんへ

いままでありがとう

○○(子供の名前)

ばーさん死んでから一番涙が出た。

言葉で言っただけでは足りなかったんだろう。

手紙を書くのが好きなうちの子は、ばーさんに届くように手紙を書いて置いていた。

文字が書けるようになったことも見せたかったのだろう。

ばーさん、あなたが孫であり子であるワタシに伝えてきたことは、この子が受け継いでくれています。

それは先の先まで継がれて行くんだと思うよ。

感謝の気持ちを込めて、生きた証をほんの少しだけ記しておきます。

ありがとう。

60くらいになったら俺も革ジャン着ようかな。

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